解説
林田直樹
アレクセイ・リュビモフは、ロシア・ピアニズムの系譜の中でも、現役で活躍するピアニスト中、もっとも重要な人物の一人である。かつてリヒテルやギレリスを輩出した伝説の名教師ゲンリヒ・ネイガウス(1888‐1964)の最後の弟子たちの一人であるのみならず、その先覚者というべき活動ぶりは、ロシア音楽史の見落としてはならない1ページを担ってきたからである。
かつてソ連時代、鉄のカーテンの向こう側にあって、リュビモフは1960年代から西側の新しい音楽に関心を持ち、ジョン・ケージやテリー・ライリーを演奏し、マショーやオケゲムらルネサンス以前の作曲家に注目し、シュニトケやヴォルコンスキーなどのソ連の現代作曲家と交流し、自ら現代音楽祭アルテルナティーヴァの主宰者として辣腕をふるっていた。そればかりではない。1980年代より古楽器の可能性にもいち早く注目、フォルテピアノによるモーツァルトのピアノ・ソナタをエラートに録音するといったことも行っていた。
その視野は、私たちの時代に生きるどのピアニストにもまして、広大である。
そのリュビモフが日本公演にあたって、膨大なレパートリーの中からあえてシューベルト・プログラムを選んだということは、何を意味するのだろう。2009年にジグ・ザグ・テリトワール・レーベルに即興曲集をフォルテピアノを用いて録音していたことからも、最近のリュビモフにとってシューベルトが新たな主要関心事であるのは確かだ。そこにはおそらくリュビモフならではの現代的な視点があるに違いない。どんなレパートリーを選ぶにあたっても、リュビモフは必ず「いま、この曲を改めて演奏する意味とは何か」を厳しく自問するタイプの音楽家だからである。
ではシューベルトの現代的意味とは何だろう?
それを考える上で、ぜひご紹介したいのが、シューベルト自身による詩である。
以下、作曲家による詩「民衆に訴える」を引用させていただく(訳は高橋悠治)。
時代の青春は終わった/民衆の力も/流れ行く群衆のなかに埋もれて/使い果たされた
苦しみにさいなまれ/あの力の名残りさえ/時代にさまたげられて/実りなく消える
民衆は歌を忘れて/病んだ時代をさまよう/あの日の夢を捨てて/顧みることもなく
ただ歌だけが運命に/立ち向かう力をくれる/かがやく思い出を描き/苦しみを和らげて
(エイベックスのCD「猫の歌」より転載)
このシューベルトの詩には、翻訳した高橋悠治自身、作曲もつけているが、シューベルトの生きた時代は私たちの時代と何ら変わらないのではないかと思わせるほどの、現代的な詩といえる。と同時に、本日演奏されるシューベルトのピアノ曲の時代背景としても、十分考慮すべき内実をもっている。
シューベルトは生涯ほとんどウィーンを離れなかった、生粋のウィーン人である。その時代はビーダーマイヤー文化、すなわち事なかれ主義のうちにぬくぬくと引きこもり、家族や仲間うちで小市民的な逸楽を求める暮らしのあり方が、支配的だった。それはおそらく、革命フランスとナポレオンがヨーロッパにもたらした自由・平等・友愛、共和主義といった理想主義へのみずみずしい感激と熱狂、そしてその反動としてのメッテルニヒ体制によるオーストリアにおける言論弾圧が市民にもたらした「委縮」「沈滞」「逃避」とも、無縁ではあるまい。
シューベルトの詩は、そんな時代の気分をよく表している。それは私たちの時代の気分にもどこかで通じるものではないだろうか。と同時にシューベルトの言葉は、いま私たちの時代に音楽がなしうることについての、明確な答えともなっている。
本日リュビモフが演奏する2つの「即興曲集」と「さすらい人幻想曲」は、どちらもこのビーダーマイヤー時代のピアノ曲である。出版されずに遺された多くのピアノ曲とは違い、数少ない「出版された」作品であることにも注目したい。当時のウィーンでは、まだピアノ曲や室内楽は、公開演奏会で発表されることは滅多になく、家庭やサロンで演奏されるものであった。つまり、内にこもった空間、親しい人々の集まりのための音楽として、実際に人々の間で演奏されたわけである。
当時のウィーンの人々の生活と、現代の私たちの生活を結びつける、これ以上の選曲はないかもしれない。
最後に、演奏への集中の目安として、各楽曲のだいたいの演奏時間を記しておく。
即興曲集 D899
第1曲:約9分/第2曲:約5分/第3曲:約7分/第4曲:約8分
さすらい人幻想曲 D760
第1楽章:約7分/第2楽章:約7分/第3楽章:約5分/第4楽章:約4分
即興曲集 D935
第1曲:約12分/第2曲:約7分/第3曲:約12分/第4曲:約7分
(はやしだなおき/音楽ジャーナリスト)