解説
真嶋雄大
ロシア・ピアニズム最大の特徴は、幼少の頃から徹頭徹尾耳を鍛え上げることである。音は倍音を多く含むほど美しく響く。その理想の音を聴かせ、体に記憶させ、如何にその音を再現できるか鍛錬を続けていくのである。その過程で達成できないものは容赦なく切り捨てられる。この徹底したシステムがロシア・ピアニズムを現在の興隆に導いた。またその方向性のひとつとして、限りなくロマンティックかつ抒情的表現を求められる。さらに音楽に関わる精神性を裏付けるために、音楽史や作品の誕生した背景、文学、美術、そして哲学などを十二分に俯瞰した上での表現が重要とされるのである。
こうした根幹があってこそ、膨大な潮流を持つロシア・ピアニズムの系譜が構築されてきたのである。
もちろん、リリヤ・ジルベルシュタインもそれを標榜するピアニストだ。1965年モスクワに生まれたジルベルシュタインは、グネーシン特別中等音楽学校でアダ・トラウブに学び、1983年からグネーシン音楽アカデミーに入学してアレクサンドル・サッツ教授に薫陶を得た。ボリス・ベレゾフスキーも教えたサッツは、フリードリヒ・グルダの長男パウルを教えたレオニード・ブリュンベルクに学んでおり、そしてブリュンベルクの師こそ、かの巨人ゲンリヒ・ネイガウスなのである。
その後ジルベルシュタインはブゾーニ国際コンクールで優勝、世界的なキャリアを築いていくのであるが、今回はおよそ4年ぶりの来日となる。これまでもソロ、室内楽、協奏曲にいずれも真摯なアプローチと深い精神性を携えた重厚な演奏を示してきた彼女であるが、取り分けその音色の多彩さや情景の移ろい、馥郁たる芳香は独創的で、あくまで気品を失うことなく、躍動感溢れるパッションを漲らせながらクライマックスへと突き進む鮮烈なドラマはジルベルシュタインの独壇場だ。
今日、彼女は19世紀後半のロシアを代表する2作品を弾く。しかもそれはロシアの民族性を重視した「五人組」のムソルグスキーと、西欧的方向性を目指したチャイコフスキーという、いわば対立構図上にある。しかしジルベルシュタインは、その対照的な両者を演奏することで、より鮮明にロシアの濃厚な抒情や大地の薫りを立ち昇らせ、スケールの大きな音楽的感興を湧き上がらせるに違いない。
■モデスト・ムソルグスキー(1839-1881) 組曲《展覧会の絵》
ムソルグスキーは、バラキレフ、キュイ、ボロディン、リムスキー=コルサコフとともにロシア国民楽派《五人組》のひとりである。生涯官吏として生活する一方で、大胆な個性を放ち、民族的色合いの濃い新鮮な作品を次々に発表してフランス印象派に大きな影響を与えるなど、精力的に作曲活動を展開した。この作品は、1873年に夭逝した急進的建築家ヴィクトル・ハルトマンの遺作展の印象を綴ったものと伝えられている。
冒頭の雄渾なテーマ「プロムナード」が会場を歩く様子を表し、いずれもが個性的な絵画をモチーフとした10曲を間奏として繋ぎながら、圧倒的なフィナーレへと収斂する。重量感のあるスラヴの民族的哀愁が濃密に湛えられたロシアを代表するピアノ作品であり、原色的な色彩感も大きな魅力となっているが、出版されたのはムソルグスキーが没して5年後であった。後年ラヴェルにとってオーケストレーションが施され、こちらも広く親しまれている。
■イゴール・ストラヴィンスキー(1882-1971) バレエ音楽《火の鳥》1919年版
「春の祭典」、「ペトルーシュカ」と並ぶストラヴィンスキーの三大バレエのひとつ。20世紀に入ってすぐ、ロシアの芸術プロデューサー、セルゲイ・ディアギレフはバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)を立ち上げ、パリを舞台に新作バレエやオペラなどを中心に、華々しい文化活動を展開した。
当初ディアギレフは、この題材の作曲をリャードフに依頼していたが、なかなか完成しないのに痺れを切らし、まだ新人の域を出ない、けれども輝かしい才能を秘めたストラヴィンスキーを抜擢したのであった。そして1910年、パリオペラ座での初演は大成功、無名の作曲家は一躍世界の注目を浴びたのである。
翌年ストラヴィンスキーはこの4管編成のバレエ曲を組曲に編纂(1911年版)、その後2管編成にした版(1919年版)を発表、さらに1945年にも改訂を加えている。
作曲の師であるリムスキー=コルサコフに献呈された。
■ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893) ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調
チャイコフスキーは生涯にピアノ協奏曲を3曲残した。けれどもこの「第1番」以外、演奏される機会はそう多くない。
ロシア・ピアニズムの源流のひとり、アントン・ルビンシテインによって創設されたのがモスクワ音楽院であるが、初代校長は弟でありチャイコフスキーの師でもあるニコライであった。青年作曲家として数多くの作品を発表し、また若きモスクワ音楽院教授でもあったチャイコフスキーはそのニコライに献呈すべく、この協奏曲を1874年秋に書き上げた。
けれどもニコライはそれを拒否、書き直しを命じる。チャイコフスキーが制作過程で助言を求めなかったというのが理由であるが、作曲家はそれに屈することなくオーケストレーションを施し、一音足りとも変更せず初演に漕ぎ着けたのである。初演は大成功、後にニコライも和解して好んで演奏したという。
(まじまゆうだい/音楽評論家)